選択の時

責任者として8年が過ぎた事であった。

他店からの引き抜きの話があった。

 

給料は今と同じで、店長教育クラスのコンサルタントクラス

マネージャーと言う役職だった。

 

私はその頃変な噂を社内で立てられ、弁護士にも相談をし始めていた頃であった。まぁ〜このまま辞めてしまって他店で頑張ろうと思い一つ返事で転職をした。

 

同じドコモショップであるが、役職が変わり、毎月の給料は同じであるが、賞与が違った。その分返済は少し余裕が出るかと期待した。

 

いやいや。人生の八方塞がりの厄年だった。店舗スタッフのお局様に、完全にメンタル部分をやられ、人生で重い完全にきつい鬱病に悩まされた。出勤出来ない。出勤出来たと思えば、下痢と嘔吐。

系列店に一年で移動させてもらい、どこでは経営立て直しを依頼された店舗だった。

 

そんなこんなで1年経った頃である。この店舗8ヶ月後に閉店になるという事が決まったよと、店長から聞かされた。なんとM&Aだった。やられた。

 

ここまで高い給料払えないから君には閉店と同時に退社してもらいますだって。はぁ?

 

それを言われたのが閉店1週間前だった。いきなりの解雇通告。

 

猛攻撃と弁護士に相談し、退職金をそれなりの金額を出してもらったが。焼石に水。返済は待ってくれない。どんどん貯金は減っていき、いよいよ任意整理を着手した。その頃ドコモの求人があった為、ドコモは大好きだからドコモに行こうと思い、試験に挑んだ。見事採用まで漕ぎ着けた。ドコモ社員としての新生活が始まった。

 

私の配属部署は、お客様のご自宅にアンテナを設置する部署であったが、私にとってはありがたい大好きな仕事が出来た。

 

良い先輩とも出会えた。この先輩とは今でも交流があります。

 

ドコモショップの13年の責任者としての経験と、いろいろあった経験で最後はdocomoに勤務できた事は自分でも嬉しかった。中々目指しても叶わなかった夢ばかりだったところに、夢の環境で勤務できるわけだから。

 

偉くなった気分はなかった。ショップの皆が居てくれて、社員として働けるから、逆にありがたいなぁ〜っていつも感じていた。今でもドコモショップの店員さんには頭が下がるねぇ。

 

ドコモの社員としての勤務もそうは長く続かなかった。母親の体調不良であった。

 

看病が必要になる事を考慮して退職した。

 

 

 

人生は甘くない。別れと出会い。そして別れ

失ったものは彼女だけでは無かった。信用もなくなった。友人を信じるという信用だった。

 少し前にこんな事をお話ししたと思いますが、不思議な体験をする様になった。と、それは観世音菩薩坐像様とのお話ができる様になった事であった。

 

そんな時父親の容態が思わしくない事が続いた時、辛いが別れの時だ。◯月◯日の夕方ぐらいを皆で送る様にとおっしゃられた。父の実の息子の前や親戚の前でしっかり話をしたところ、気狂いと言われたが、その日の時間も言い当てた。

 

父は多くの親戚と家族に見守られ旅立った。

 

 

 

また、仕事の忙しさと、借金返済の毎月のやりくり。

この時30代近くなっていた。

 

 

 

そんな時出会った。

東京の医師をしている友人からの紹介であった。

2度と出会えなくなってしまった彼女との事を心配してくれて、東京にちょっと遊びに来いよと誘ってくれた。

 

その友人は本当に俺のことを心配してくれて、借金の一部も負担してくれたり、その友人の行方を調べてくれたりして本当に今も良き友です。

会う当日、友達を連れて行くけどいいか?と言われたのでいいよと伝えた。

 

そして久々の再会だった。その時だった。一瞬で時は止まった感じだった。そこに居たんです。亡くなった彼女が。本当にいたんです。何もかもそっくり。どこか違うところを見つけるのが不可能な位のそっくりな彼女。

お前に紹介したいんだ。お前のこと話ししたら是非したいと言っているから連れてきたんだ、と。

声、身長、顔、食べ物の趣味、も、何もかもが一緒だったが唯一違ったのは、住んでいる場所と年齢だった。

 

友人にしてやられた。俺病院から呼び出しだから、後は二人でと。お互いお付き合いがスタートするまでは時間がかからなかった。相手からスタートを言われた。私は生まれ変わりかと思ってしまうくらいそっくりだった。

 

私はしっかり今までの事を報告する様に、旅立った後から今日までの事も伝えた。

 

この恋愛に大反対だったのは、彼女のお母様だった。不謹慎だ。絶対にお付き合いも、会うことも認めないと言われたとの事だったが、彼女のお母様とお話する機会ができた。思いの打ちを真剣に伝えた。

 

その日の夜に彼女から、連絡が来た。本当にあんたの事好きなんだね。いい人って事は凄く感じたし、真面目なんだね。あんなにお母様出てきて怯まないし、どんだけあんたの事愛してるし、好きという事を真っ直ぐ伝えてきた姿見てちょっと理解できる人かもね?って言ってたよって言われた。だけど、今はすぐにお付き合いは認められないからもっと信用が欲しいって言ってた。

 

それからは必ずお母様に了解される様に、こちらの連絡先の住所も実家の電話席にも、いつでも気軽に連絡をいただける様にし、彼女の携帯にお母様から連絡があった時は、何をしていても優先で電話に出る様に約束した。

 

それでもお母様の反対と言う気持ちは強くなってしまい、彼女に別のサッカーのコーチを勧めたり、精神的に彼女にダメダメダメ攻撃が激しくなり、お母さんがうるさくって、と、彼女から相談された。相談が長引いてしまい、東京を出発する時刻がいつもより2時間遅くなってしまった。その日はちょうど冬の寒さがスタートし始めた10月の5日だった。今でも覚えている。新東名高速道路で私の不注意により大きな交通事故を起こしてしまい、彼女もお気に入りだった車が大破した。しかも車のローンが全て完済日の記念日でもあった。

そして彼女と永遠の別れの1ヶ月前の日でもあった。

 

事故から約1ヶ月の日に久々の再会。彼女のお母様から物凄い罵声と恋愛の禁止を宣言された。

娘を乗せている時に事故にでもなった場合困るからと。

 

その日は、近くの駐車場で話をして1時間で東京を後にした。

 

次の日であった。LINEにいきなり、別れよう。親がうるさくって。私の事本当に大切と思うなら別れて。ここまで苦しませないで。大切なら苦しませることしないよね?と、言われたので、彼女を苦しませるために恋愛していたわけでは無かったので、電話で30分説得され別れることになった。

また一人になってしまった。別れを経験した。今度は同じ世界での別れだった。

 

また暗いトンネルに入っていった。

 

医師の友人にも、逆にお前に苦しみを与えてしまった事を申し訳ないと言われ、謝罪された。

 

友は、元気づけてくれるために探してくれたのに、自分の不甲斐なさに悔やんだ。

 

私は今でも愛しているし、好きです。

 

私は何年経とうとも待っています。

 

その頃会社の勤務にも影響が出始めた。

ドコモ時代 苦悩

大手ショップのドコモショップを就活したが、1回目はお断りされた。

 

悔しくて、どこがダメだったのかと聞いたのと、もう一度面接をお願いしたいと、お願いした。

 

試験日は私がこれが万全という日で良いとのことで、3ヶ月もう一度頑張った。そしてもう一度挑ませて頂いた。

 

見事ドコモショップのスタッフとして勤務ができる様になった。

 

コンピュータの操作と接客の方法と色々学ぶことが多かった。忙しいのはありがたい。悲しい時間を思い出す時間を奪ってくれるので。

そのショップで勤務し始めて2年近くが過ぎようとしている時であった。

 

新しい店舗が1店舗できる求人があった。

副店長を採用との求人であった。

 

自分の中でもステップアップしたいと思っていたので、連絡したら、かつて、2店舗掛け持ちでバイトしていたもう1店舗の社長が経営する店舗だった。その社長は兎に角やり手だった。私は馬が合わない事が多かったため最後は喧嘩退社のように去っていた社長のドコモショップ新店舗だった。

 

まぁ〜電話してしまったのでとりあえず話だけでも聞きに行くことにし予定日に予定場所に向かって2時間くらい話をした。

 

給料の提示や、迎える役職が責任者という事であったが、副店長だと思っていたので、わかりましたと返事をした。

 

新店舗出来上がるまでは、新スタッフは系列店で研修という事で、私も研修の中に加わり初日を迎えた。行ってみたら話が違った。責任者という事だったが、店長の役職になっていた。

え?

 

早速始まった。以前も言った言わないで揉めたことがある社長との初日からバトルだった。早々災厄のスタートだった。

 

なんやかんやで、忙しく働き始めていた頃でした。突然金融会社から電話が入った。

 

今月のお支払いが遅れています。至急お支払い頂けますか?と?そう。あの連帯保証人の件であった。即友人に連絡したら、銀行変えて、手続き漏れしてただけだから安心して良いよ今日支払ったからと言われ、その後数ヶ月何も無かったので、私も彼女との思い出の場所に少しづつ慣れるためにまずは友人のレストランを予約した。その日の予約最初に入れてもらった。レストランに着いてびっくりした。社長が逃げた。従業員がレストランの本店の外に居て、サラ金会社の人も何人もいた。数ヶ月後に警察官の友人から教えてもらったが、国外に逃げてしまった後であった。勿論連帯保証人である私に全ての借金が降りかかってきてしまった。毎月恐ろしい額を支払うことになった。給料の八割は全部返済。貯金も少しづつ消えてく感じになっていった。

 

この頃もう一つの問題が出てきた。

 

育ての父の小細胞癌の発覚だった。

 

しかもステージ4だった。

 

父は県を退職し、退職後も他の会社で勤務して、私を専門学校まで卒業させてくれた。

本当の父親だと思っていた父親が癌なんて凄くショックだった。治療は本人も辛いが、周りの家族も辛かった。親戚や父の実の兄弟や姉妹は母親対して物凄い当たり方をした。癌になったのはお前のせいだと、言ってきたのであった。いくら嫌いな母親にでもそれは許せなかった。

別々の住む世界が違ってしまった

2ヶ月ぐらいして、日産の時の友人が、お見舞いに来てくれた。いつまでも部屋にいるとダメだから、外に出て食事に誘ってくれた。

 

だが実家に帰ってくると彼女の事ばかりで、毎晩寝て朝を迎えると、枕が涙で濡れてしまっている。これは今でも毎日である。

 

彼女の居なくなってしまった事を受け入れたくないから、彼女の実家や待ち合わせ場所には行けなかった。携帯番号に連絡するのも怖かった。

 

意を決して行っても、玄関から中には入れなかった。ご両親からも、無理せず良いんだよ。いつでも待ってるからとおっしゃっていただけた。お墓の場所は、元々の故郷の栃木県にお墓を建てる予定だからとおっしゃって、いつかは栃木に戻られるとのことであった。

 

少しずつではあるが、一歩ずつ、警察官の夢に向かって勉強を始めた。遊んでいるわけにもいかないので、携帯電話の販売のバイトを2件掛け持ちで、時間があるときは警察官採用試験の勉強と体力づくり。

 

彼女との約束を果たすために必死で勉強と体力作りに頑張った。

 

この頃から、不思議な体験をする様になった。

以前からちょくちょくあったのだが、より一層強くなった。このお話は時期が来た時にお話しさせて頂きます。

 

そして試験の申し込み期間が始まった。

 

自宅に警察官採用試験受験番号が発行された郵便が届いた。

 

親に先に受け取られ、猛反対された。ただでさえ、辛い思いして、あの日の出来事があるのに、わざわざ思い出す様な現場で働くのか?と。

 

説得しても全然ダメだったが、私は、彼女と約束したのだ。彼女の分も一緒に頑張ると。同じ辛い思いする人が一人でも少なくなることを目指すべく。

 

試験は年齢ギリギリまで受験し続けた。

 

彼女との約束を果たせなかった。

 

最後の不合格通知が届いた時、自分で人生を終わらせて、生まれ変わって、再度採用試験を受験しようと考えてしまった。

ごめん彼女◯◯。本当にすまない事をしてしまった。彼女を2回も殺してしまうほどの約束も守れない男になってしまった。

 

その頃、バイト先のマネージャーから、エリアマネージャーやってみないか?とお声がかかった。

 

バイトじゃなく正社員で、東海4県のエリアマネージャーとして、頑張らないか?君の苦労も知っているし、過去のことも理解してだぁ。気持ちが辛い時は、休んで良いし、売り上げと、苦情処理と、在庫の管理と、人事的な部分をしっかりしてもらえれば、それで良いからと。

 

彼女の事や、警察官採用試験の事で世話になった警察官の方や、リピートのお客様などに世間話をお互いしていたので、今携帯の販売の現場にいなくなっちゃうの?とか、もっと上のサービスしたいって言ってた君なら、全部受付できるお店に就職した方がいいんじゃないかとアドバイスされ、私は大手キャリアのドコモショップの門を叩いた。

カウントダウン0

車内でどのくらいであろう。電話かけて、ちょっと待ってみるか?って思った瞬間から数秒だと思う。

 

彼女のお母さんから携帯に電話が入った。

物凄く慌てた電話で今すぐ、

兎に角◯◯の救急まですぐ来て。彼女の名前

◯◯が車に跳ね飛ばされて、病院に運ばれた。とにかく来て。

 

頭の中が真っ白だった。何も病院までのどんな走りで急いだのかも覚えていない。多分速度違反してしまったであろう。他人にも迷惑になるような運転してしまったであろう。それすら記憶がないほど必死で向かった。

 

彼女は手術が終えており、眠っていた。面会謝絶のICUの個室で沢山の機材につながっていた。

 

家族の人に中に入れてもらい、必死で名前を叫んでしまった。その時目が開いて、最後の会話が、自分の夢に向かって頑張ってねぇあたし待ってるから。って言われた。

 

その頃、友人の影響もあり、静岡県警察官採用試験に向けて頑張ってみると言う気持ちがあった。お客さんの事故現場に何回か行った時に、この事故は防げないものなのかとちょくちょく思い始めて、警察官を目指そうと夢が少し変わっていた。彼女にも賛成されていたので、応援してくれていた。

 

あっという間だった。個室の外に出されて、1時間後、彼女はそっと静かにいつも見せたことのない、冷たい、何も知らない前の別の私が知らない彼女になっていた。俺は泣きすぎて頭痛と自力で立つことが出来ないほど、泣いて泣いて悔やんだ。ご両親に私の車にバックを取りに行くのを手伝ってもらい、婚約指輪を彼女に渡したいと伝えた。ご両親は賛成してくれた。

 

グタグタのプロポーズだったが、変わり果てた彼女の手を握り伝えた。手には、道路と擦れたであろう擦り傷が腕に向かってあり、打撲の皮下出血なのか?傷に耐えた彼女が横たわっていた。顔には化粧で隠しきれない傷が。

 

どうして、今日なんだ。どうして彼女を連れ去ったんだ。

病院を出た頃には翌日の夜明けの光がうっすらと見える時間であった。

 

確か4時30頃だった。彼女といっぱい話をした。これまでもいっぱい話して笑って怒って、互いに良い時間を過ごしてきたが、辛い時間を過ごしたのは、お互いが一緒にいてはじめての時間であった。

 

7時頃には所長から電話が入った。どうだった?オッケーもらえたかぁ〜と明るい声だったが、私にその元気はなかった。一言、彼女は居なくなってしまったと、答えた記憶がある。

 

所長は何言ってるかわからんけど、出社したら教えてくれと言われたが、無断欠勤してしまった。その日の昼頃、寮にも居ないので、実家に連絡が入り、所長が私の実家に訪問した。

 

私は病院から帰ってきて、自分の両親には伝えた。あらいざらい。両親は何も言わずに静かに受け入れてくれた。

 

所長が自宅に来た時も、私が説明する前にある程度先に私に会う前に全ての内容を伝えてくれた。

 

私はこの日を境に、車も見るの売る事が嫌いになってしまった。

 

彼女のご両親から通夜と葬儀の連絡があったが、無理せず、自分が受け入れられるようになったら、いつでも良いから、彼女◯◯に手を合わせに会いに来て下さいとご配慮頂けました。

 

所長からは、一旦離れて自分の時間にゆっくり時間を使ったほうがいいと言うことで、退社をした。

 

彼女のご両親からでしたが、跳ね飛ばした運転手は飲酒運転だったとのこと。今では重罪であり、物凄く刑事罰が重くなったが、この頃の服役は今に比べれば軽すぎる刑期だった。

 

人生やこの世の中の全ての意図が白黒の色になった色をしていた。ドラマや映画のような色だった。色が消えた。

就職 そして人生の絶望へのカウントダウン

社会人学校が始まった。

自分で考えて自分で見つけて動く。

教えていただいたことには感謝を伝える。

辛さから逃げてはいけない。チャレンジしなければいけない。これが社会人学校の初歩の初歩。

 

私の配属は実家から通勤では無く、静岡県の西部にある店舗であった為、会社の寮生活であった。

 

先輩からの引き継ぎなどがあったり、出向で来られていた先輩のお客様の引き継ぎで、いきなり100名以上のお客様の営業マンとしてもスタートであった。

 

そんな中、とある出会いで、1人の学生との出会いがあった。社会人としても初めてのスタートと、人生初めての異性とのお付き合いであった。

 

車の営業マンだったので、遅い時は早朝2時の商談とか、ホストのお客様をお相手に商談に行くケースもザラであった。

 

この頃少し体調を崩してしまい。車で営業回り中に心臓の痛みで救急車騒動になってしまった。

 

所長が部長に呼び出されて、勤務の監督が厳しくなった。それでもこの所長は、クレジットカードが今週中に3件加入取れたら、休んで良いよと、言う完全今ではアウトの所長であった。結局私はその月は1枚しか取れなかった為、休み無しで、1ヶ月間ずっと出社だった。定休日にも出社して、お客様様の所を回って加入してきなさいと言う仕打ちだった。

 

徐々に営業のやり方等にわかってきたときに、正式にあの時出会いがあった学生さんとのお付き合いがスタートした。

 

食事に行ったり、映画館で爆睡してしまって、彼女から激オコされたりしてたが、充実していた。

この頃所長は入れ替わりになり、物凄く理解のある所長さんに変わった。そのことから、店頭で、確実100%受注の鰻登りに車が売れるようになった。クレジットカードも月に驚くほどくらい獲得でき、報奨金を貰えるように変われた。人として心配してくれる所長さんでした。

 

この頃私の友人が東京の表参道の近くに3店舗目のレストランを出店するとのことで、いろいろ相談にのっていて、彼女とも食事に行っていて、お金の面で何も心配のない成功した友人から、事業を動かすために、借金の連帯保証人になってくれないか?との相談があったが、初めは断っていたが、口座の残高など全部お金の動くを見せていただき、安全と判断して1200万近くの連帯保証人になった。

返済スタートが始まってからも何も問題なく過ぎていったし、彼女とちょくちょく食事に行っても全て無料で提供してしていただいたので、連帯保証人の契約の時の交換条件もちゃんとしてくれて、店も3店舗4店舗と増えて行って順調であることも安心できていた。

 

恋愛も、順調に進んでいき、日産で働き始めてから4年を迎え、彼女の誕生日にプロポーズをしようと私は決意した。

お互い一緒になったらと言う話がちょくちょく出ていたので、男として決断と世界で一番好きな人と結婚できる自分だから絶対に幸せにしたい、この人じゃないと幸せにできないから、プロポーズしようと、婚約指輪を購入した。そして彼女の誕生日11月5日に毎年の記念日のように約束をして、いつもの待ち合わせ場所に約束を毎年同じように何も変わらない記念日から今年は違う記念日に変えようと考えた、約束をした。

 

運命のカウントダウンは始まった。

11月5日当日が来た。

 

その日は、所長にも大切な日だからと言うことで、早めの早退扱いにしてもらおうと話をしていたら、急な商談が入ったが、約束の時間には余裕がある時間で商談も終われるので、その商談を引き受けた。

朝から緊張しすぎて、空回りテンションだったが、車の事故の無いよう気をつけて予定の時刻が近づいてきた。商談も無事終え、彼女に今から向かうからと伝え、予定の時刻に、いつもの交差点の先で待っていてと伝えて、後部座席に115本のバラの花束と婚約指輪をスーツの内ポケットに入れて膨らんじゃうことに気づいて、右ポケットに入れてみたり、右ってではめるから、左ポケットかな?と色々悩みながら結局バックの中にしまって向かった。

 

待ち合わせ時刻は19時だった。11月は19時になると暗く。一人で待たせるのも不安だったが、人通りも多い場所なので、特に心配ではなかった。

 

高速を使って一般道を進んでいったら、こんなところで渋滞なんて珍しい?なんだろうと考えていた。時計を見たらまだ余裕がある時間で30分も余裕があるから大丈夫と思っていたら、どんどん余裕がなくなってきた。まずい、遅刻しそうだから、連絡した。いつもだったら数コールで電話に出るのに、電話に出ない。むしろ、留守電?なぜ?まー、たまーに電池切れで、車で充電する彼女だったのですが、予定の19時になっても渋滞が動かない。その頃、渋滞の列引き裂くようにパトカーや救急車やレスキューの消防関係が何台も通り過ぎていった。私が渋滞にハマってから20分したら対向車線を走ってきたので、車の事故かと思っていた。

 

だが渋滞は動かない。彼女からもおそーぃと言う電話もない。彼女の実家からその待ち合わせ場所はものの1分くらいの場所なので、もし携帯の電池切れでも自宅から連絡があるはずなのに?何かおかしい。その時、車が動き始めた。ようやく待ち合わせ場所に着いたと思いきや、待ち合わせ場所で事故だった。その場に彼女の姿は無かった。

 

事故現場からちょっと先で、停車し、彼女に何度も電話をした。また、彼女の実家にも連絡したが、両方とも留守電だった。

 

専門学校生活スタートから卒業

専門学校の生活がスタートした。

 

私にはこの学校で目標があった。学生会の会長を絶対に務めることと、SONYに絶対に入社すると言う目標に向けて行動することであった。

 

学生会選挙で見事に次期会長の選挙に当選した。

2年間全く頼りない出来ない会長であったが、周りの支えで何とかやり抜いた。やり遂げさせてもらえたと言った方が正解だった。

 

本当に苦しかったが、地獄の高校時代よりは本当に幸せだった。

 

授業は工業高校を出ていない為、全く珍紛漢紛で毎日が血を吐くような苦しい授業であったが、知識は0から1には変わった。

 

良い先生とも出会えた。今でも学校の先生とは交流がある。本当に良い恩師との出会いであった。これも小学校の時のあの先生の一言が自分を変えてくれたから、この先生とも出会えたのである。

感謝です。

 

2年と言う時間はあっという間で就活か大学への進学か人生の選択次期になった。SONYと言う会社を7社受けたが、この頃は不景気どん底の就職難の時期であり、SONYの説明会でもはっきり言われた。今年の入社はかなり厳しいと思って下さいと、と。

それでも諦めず、受け続けた結果、学校であと2人だけ就職できていないメンバーの1人になったしまった。

 

その時、日産のブースに話を聞きに行った時に、人事の方に一回本社に来て話だけでも聞いてみませんかと声をかけて頂けた。

 

なぜかとんとん拍子でお話を聞いて対談終えて帰ってきて、2日後に日産から内定出たぞーって担任が駆け寄ってきた。え?私の中ではこの厳しい中、何もわからない私なんかを採用してくださる会社に感謝であった。当回りになるかもしれないが、いろんな経験をしながらSONYを目指す方法がある事も学校の進路相談の先生から言われ一旦は日産で頑張ろうと就職させて頂きました。