高校生活 最後に向けて

学校の中では、唯一守ってくれたのは、生徒会の仲間たちだった。あの仲間がいなかったら、絶対に自主退学していたであろう。

 

あの時の皆、本当にありがとう。今でも感謝しているし、守ってくれてありがとう。

 

こんな時、自分に夢ができた。

SONYのMDウォークマンとの出会いであった。

この頃からSONYに入社して全力で頑張りたいという目標であった。だが、私の入学した高校は、工業ではなかった為、専門学校に行ってしっかり勉強してSONYを目指そうと言う目標ができた。

 

高校時代は、学年でもそれなりに勉強が出来て、中学までとは真逆の、勉強が楽しいと感じれる時間であった為、先生にも大学に行きなさいと言われたが、いち早くSONYと言う現場で頑張りたいと感じた為、専門学校を選択した。

 

静岡の駅南のすぐ近くの電子系の専門学校を選択して、受験した。本当に嬉しかった。合格できた。

 

そして地獄の3年間の時間は終えた。

高校進学 入学から中期

高校生活が始まった。

 

高校は私にとって地獄の3年間であった。

高校の1年の1学期に、授業中1人のクラスメイトに向かって、消しゴムを投げたり、ゴミを投げていたので、注意したら、3年間のイジメの対象になった。ごく一部のクラスメイトは、裏では構ってくれたり、社交辞令的な感じで一緒に帰ってくれたが、学校生活内では、助けはなかった。担任にも相談したが、自分が変わらなきゃ何も変わらないと言われた。

 

この時、親らが土地購入と家を建てた為、静岡の市内から、高校のある市に移住した。

 

この頃からイジメがエスカレートした。

ナイフで脅されたり、お金を取られたりした。

学校に朝行くと、机の上にチョークの粉が塗されていた。

違うクラスから不良グループが集まり昼休みは、同じようにいじめられていた他のクラスの子が、両目を真っ黒にしながら血を流しながら殴られていた。お前もこうなりたくなければ、服従しろと脅された。

体育の時間の班決めは最後まで毎回残って、どの班も要らないので、罰ゲームの対象商品のように扱われた。

 

今でもこの頃の辛さは思い出す。理性が働かなければ、確実に私は新聞沙汰になってしまう過ちを起こしてしまいそうである。

 

この頃は精神的にボロボロで、自律神経失調症になって、医師からの処方箋だらけであった。

 

自宅とは真逆のホームセンターで太い縄跳び建設用で使う釘とボルトを無意識に買っていて、自宅に帰っていた。

 

自宅の自分の部屋で首を吊る瞬間に親に見つかり学校の教員が大慌てで自宅に朝から集まった。

 

この時の意識は全くないし、記憶もほとんど無い。今思い出しても、思い出せない。

 

 

 

 

中学校 卒業

卒業に近づくにつれ、進路の話が盛んになった。

自分の中では、全く何も考えていない発言と思えるかもしれないが、プロのマジシャンとして、とある方の弟子入りをし、将来プロとして頑張ろうと考えたりしていた。

高校より、とにかく働きたかった。

 

だが、親は絶対に反対だった。今冷静になって考えれば自分でも納得できる部分はあるが、その時は、親の意見に丸め込まれて、高校の推薦受験をした。

合格発表日は、学年主任の先生のもとに連絡が入り、合格の通知を受けた。

 

家に帰り親は大喜びだったが、自分の中ではすごく複雑な思いだった事を、凄く今でも覚えている。その複雑という気持ちは、これからの学校生活の不安だった。

 

卒業式当日。温かな春の日差しのような日だった。私は義務教育の時間を終えた。

中学校 中期

もうこの頃になると、何もかものテストがダメになった。

他人とはちょっと違って、マジックに目覚めた。今の40代中間の方は知っている人も居るであろう、なるほどザ・ワールドのトランプマンである。

書籍を初級編と中級編のマジックの入門で自分も本がビリビリになるまで読んだ。勉強もその位必死だとよかったが、勉強は、べの字も無かった。

腕前は、下手くそがマジックをする位の腕前しかなかったが、そこそこクラスの皆には笑われ半分披露をしていた。

まぁ〜今で言う変わり者だぁ。

 

学校には許可をしっかりとって、トランプなどを持ち込んだ。

 

部活は美術部を幽霊部員で3年の1学期ぐらいまで名前だけ置いておいて、ほぼ帰宅。

 

その頃仲の良い仲間からテニス部に入らないかと誘われたので仲の良い皆で、美術部を辞めてテニス部に入った。初めはきつかったが、楽しく毎日を過ごした。

中学校のスタート

小学校のほぼ真横にある中学校への進学だった。

通学路もあまり変わらずにいつものスタートだった。

塾、習い事、家庭教師スケジュールのお陰で、中学1年の1学期の成績のままで、3年まで頑張れば、静岡の公立高校のトップ2校には簡単に入れると言われた。親は初めて私を褒めてくれた。

 

その時、習い事の一つの、英会話を辞めた。週に2日の休みが出来た。これが人生転落になった。

 

二学期がスタートした。

英語の授業の時にHe. Sheとか?

なんじゃそれ?ザット?

なんじゃそれ?

 

全く解らなくなってしまっていた。

また、勉強がわからなくなっていき、全ての成績が最低になってしまった。

 

勉強がわかる時って、楽しかった。あの時の楽しい感覚を取り戻したかったが、自分の力ではどうにもならなかった。

 

 

小学校時代 中期から卒業

学年が上がるにつれ、友達も増えていった。

 

この頃、中学受験を親から言われた。1週間塾と家庭教師と習い事で、友達とも遊べない状態だったのと、友達の会話について行けなくなっていた。あのテレビ見た?これここから入ると、違うスタージにワープするんだぜー!との、ゲームの会話が解らなくなっていた。

徐々に学校に行くことが辛く、毎朝頭痛と腹痛。

2時間目には必ずと言って良いほど保健室で横になる状態だった。受験ノイローゼと、医者に行って診断された。学校側から親に、説明されて、説得されて、受験はやめることになったが、塾や習い事や、家庭教師の詰め込みスケジュールは変わらなかった。

そんな時、小学校の5年生の時に人生が変わる、先生と出会えた。

学校でも一番人気の先生との出会いだった。

私は人前に出て発言するなどの度胸がない私に、児童会役員をやってみないか?と提案してくれた。「役員の事や、家の悩み、友達との付き合い方で困った時はなんでも相談しない」と、本当に親身になって私を変えてくれた。

6年も同じ担任の先生で、この2年が今の自分に貴重な時間と経験をさせてくれた。

本当に先生ありがとう。今でもあの時の笑顔や、先生の事を大切な恩師と尊敬しています。

 

卒業式の日

この6年間はキツく辛かったことと、恩師への感謝の6年でした。

中学への進学の人生道がスタートが始まる。

 

人生道選択と小学生のスタート

私は、母親を選んだ。

父親は実の父で無く、育ての父となった。

私は街の小学校を選んだ。

今までと住んでいる環境も匂いも風景も違った。マンションという所に初めて住んだ。

マンションからの景色は建物ばかりで、緑はほとんど無かった。

小学校の入学式当日。

周りは見た事ない誰この子?と言う子ばっかりだった。今の年齢になれば当たり前の事であるが、その頃の自分は、あの子が居ない、◯◯ちゃんが居ないと、見渡しながら思っていた事を思い出す。

1クラス40人で5クラスある、その当時では、何も珍しくない光景ですが、私にとっては、ここに何日間来るのかなぁ〜っと思った。

先生の説明も耳に入って来なかった。

 

今でも思い出すとおかしな事を思う私だなぁ〜って思うが、自分は1年2組だったのだが、明日は1年3組また次の日は1年4組と1日ずつクラスが変わって、6年5組迄はあっという間に終わると考えていた事を思い出す。何故そんな事を思ったのか未だに解らない。

 

そんなこんなで小学校生活がスタートとして3日目の日だった、いきなりテストがあった。

 

算数のテストだった。

幼稚園の時に読み書きや何かを覚えるなどのお勉強の時間などは一切ない幼稚園だったので、全てがわからなかった。

 

もちろんいきなり親が呼び出される事態となった。街の幼稚園では読み書きやお勉強の時間は当たり前。人生の一番最初のスタートから挫折の一歩だった。

1週間も経たないうちに、時計の読み書きの所まで。

家では学校から帰ってきたら、宿題を怒られながら、終わらせて、問題集をやらされ、勉強というものが苦痛だった。それ以上に苦痛だったのが、母親からの仕打ちだった。

勉強がわからない部分があり間違えると、定規の線を引く部分を縦にして、頭を思いっきり殴られて、泣きじゃくると、お腹を蹴られたり、顔面をグーで殴られたり、目を叩かれたり、ビンタは当たり前、コンパスの針の部分で、手の甲をツンツンされたり、髪の毛を引っ張られて、タンスに頭を何度もぶつけられたりされた。

 

私がお風呂に入った後、お風呂がぬるいと、完全に火傷レベルまで、沸かされたお湯に入れられて、全身がヒリヒリするくらいのお風呂に無理やり入れられた。この辛さは今でも憎い。